

事業開始から50周年を迎えました。
OBの塩見勇氏(営業)、高梨修一氏(営業)、谷口芳二氏(製造)、中里孝記氏(技術)の4名と、
ACP事業部長の渡辺に「50年の歩み」を振り返っていただきました。
当時の思い出、苦労話など、様々なお話を伺うことが出来ました。
memberメンバー
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塩見 勇(しおみ いさむ)
専務取締役兼
スポーツ用品事業部長 -
高梨 修一(たかなし しゅういち)
スポーツ事業部副事業部長兼
営業部長 -
谷口 芳二(たにぐち ほうじ)
製造部長
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中里 孝記(なかざと こうき)
技術部長
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渡辺 貴史(わたなべ たかふみ)
取締役兼ACP事業部長
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飯田 浩治(いいだ こうじ)
ACP事業部営業部
プロモーションチームリーダー
Fujikura50年の歩み:
OBが語る軌跡と洞察 - 製造編![01]()
シャフトの製造について
1973年~
飯田当時のシャフト製造は何人ぐらいのスタッフで作っていたのでしょうか。
谷口わたしが入社したときはCS(カーボンシャフト)課で6人でした。
6人のときは、6人で1グループになって、今日はこの工程、次の日はこの工程という感じで、工程ごとをこなしていくスタイルだったね。
当初はそんなに注文もなかったから、月の半分くらいをシャフト作り、残り半分は他の部署を手伝いに行ったりすることが多かったですね。、
建屋の周りの草むしりをしたり、ペンキ塗りしたりなんてこともしてたよ。
大口の注文が入るようになって、6人だと手が回らなくなって、20人ぐらいに増員しました。
飯田いつから今のような製造スタイル(工程ごと)になったのでしょうか。
谷口各社の大口の注文が入るようになってきてからかな。平成元年の別会社のフジクラエンタープライズになったころには、
50~60人のスタッフで、各工程ごとに作業するようになっていました。
営業と同じで世の中がメタルヘッドに変わったことが大きな転機でしたよ。
Fujikura50年の歩み:
OBが語る軌跡と洞察 - 製造編![02]()
アメリカへの進出
1995年頃
飯田今もサンディエゴに子会社として、Fujikura Composite America Inc(以下、FCA)がありますが、スタートはどのような感じだったのでしょう?
塩見大手外資系メーカーから多くの発注をいただくようになり、アメリカでも製造を、となったのががきっかけですね。
当時は、日本から8名ぐらいが技術支援で行きました。
谷口当時、わたしもアメリカに技術支援で行きましたが、現地の人とは、なかなか言語が通じず、コミュニケーションもとれないし、苦労した記憶があります。
塩見実際のところ、アメリカ人は繊細ではなく、ものづくりには向いていなく、物事をアクティブに考えるアメリカ人特有の性格からも販売拠点としては向いていると当時から思っていました。
結果、製造拠点ではなく、今のように営業拠点となっていきました。
アメリカのクラブメーカーが台湾や中国でヘッドを作り、アッセンブルをするという流れが出来たので、シャフト製造をアメリカでする必要はなくなっていきました。
アメリカに行って驚いたのは、PGAショーかな。とにかく規模が大きくて。
Fujikuraブースは、展示ブースだけでなく、商談スペースにドリンクやフードを置いて、来場者にと商談をしていくというスタイルにしました。現地スタッフの意見を取り入れたけど、その発想はなかなか日本人では出来ないなと感心した。
マーケットの大きさも非常に驚いたが、最近ではFCAメンバーがVETNTUSでそのマーケットで躍動しているのを見ると嬉しいですね。
OB一同これからももっとFujikuraシャフトが世界中で活躍してほしいね。
Fujikura50年の歩み:
OBが語る軌跡と洞察 - 製造編![03]()
SPEEDERシリーズ
の誕生
1995年~
渡辺96年のFIT ON 11!で工房ビジネスもはじめ、リシャフトブームの先駆けのようになっていますが、
その翌年の97年にはSPEEDERシリーズを出しているのは、何かきっかけがあったのでしょうか。
谷口昔あったゴールドシャフトがとても市場で評価されたので、同じような流れのものを作れないかなと考えたのが始まりでした。
最終的には30g台のモデルまで作ることが出来ました。
三軸織物という素材に出会ったのも大きなきっかけですね。
当時は使う材料が限られていたけど、営業からの意見も聞きつつ、材料メーカーさんに色んな要望を出すようにもなっていきましたし。
材料メーカーさんとの繋がりが強かったのも、Fujikuraの強みの一つでした。
そのおかげで、色んなカーボンシートを試すことが出来たし、Flyrunシリーズでも素材名が入ったシャフトを作ることも出来ました。
飯田FIT ON 11!は11種類あるかと思います。
中里次から次へと、色んなカーボンシートを試して全部で11種類になりました。
ケブラー、ボロン、チタンなど様々な素材も試しながら効果的なものをピックアップしていきました。
飯田FIT ON 11!の中でもSPEEDERが人気だったんでしょうか?
塩見他にも人気のものがあったけど、特にSPEEDERが人気があったので757につながりましたね。
そこからはSPEEDERを中心に開発をしていきました。
開発の松本さんや評価担当の白浜プロもイチオシでしたし。
高梨ターゲットもしっかりしていたので、営業としても薦めやすかったよね。
名前もコンセプトもわかりやすいし、何しろ結果が良かった。
塩見今でもSPEEDERシリーズがメインモデルとなっているのは嬉しいですね。
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OBが語る軌跡と洞察 - 製造編![04]()
SPEEDER661が
流行ったきっかけ
2001年~
飯田SPEEDERといえば661が大ヒットの引き金になったようですが、きっかけはあったのでしょうか?
ちなみに私には手ごわくて打ちこなせなかったです笑
高梨日本だけでなくPGA選手にもSPEEDER757を使う選手が多くなってきて、軽量化したものが欲しいと。
塩見FUJIKURAロゴをちりばめたデザインがツアーで目立ったのが一番のヒットのきっかけですかね。
プロだけでなく、アマチュアにも70gだと重いので661が受け入れられましたね。
圧倒的な加速感が特長のシャフトで飛距離が変わるのも体感してもらえたと思っています。
飯田面白いのは、100g台を当たり前に数年前までは使っていたのに、
70g台が重い、60g台にしようとなるのが早かったですね。
中里そのあとも569や474などの軽量モデルも次々と開発していきました。
30g台の351はシニアゴルファーやレディスゴルファーに人気となりました。
クラブヘッドは大型化、シャフトは軽量化が一つの進化の基準という時代でしたね。
~追悼~
有田静生さんへの想い
元取締役事業部長の有田さんが本年2月19日88才でご逝去されました。
我々にとっては真のレジェンドの人で色々ご指導頂きました。
基本は公平な考えの方で技術的にも強く固有振動測定器の開発と理論、理事を永く務められ、業界の発展にも寄与されました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。