

事業開始から50周年を迎えました。
OBの塩見勇氏(営業)、高梨修一氏(営業)、谷口芳二氏(製造)、中里孝記氏(技術)の4名と、
ACP事業部長の渡辺に「50年の歩み」を振り返っていただきました。
当時の思い出、苦労話など、様々なお話を伺うことが出来ました。
memberメンバー
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塩見 勇(しおみ いさむ)
専務取締役兼
スポーツ用品事業部長 -

高梨 修一(たかなし しゅういち)
スポーツ事業部副事業部長兼
営業部長 -

谷口 芳二(たにぐち ほうじ)
製造部長
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中里 孝記(なかざと こうき)
技術部長
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渡辺 貴史(わたなべ たかふみ)
取締役兼ACP事業部長
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飯田 浩治(いいだ こうじ)
ACP事業部営業部
プロモーションチームリーダー
Fujikura50年の歩み:
OBが語る軌跡と洞察 - 営業編![01]()
シャフト事業50周年を
迎えて
渡辺本日はお集まりいただきありがとうございます。
Fujikuraシャフトは2023年でシャフト事業をはじめて50年が経ち、50周年となりました。今までの50年、これからの50年に向けて、お話しを伺えればと思います。
飯田今年はゴルフ業界では量販店の二木ゴルフさんなど50周年が多いようです。
トーナメントもミズノオープンも50回と聞きました。
塩見シャフト事業50周年、誠におめでとうございます。今回の企画のお声がけを頂き光栄に思っております。
1974年都内のホテルニューオークラでシャフトの販売の記者発表を行ったと思います。その当時わたしは大阪支店勤務で出ておりませんが、「もうそんなに経ったのか~」と感慨深いものがあります。
発売の何年も前からの開発から今日まで大変多くの方々が、この事業に携わり進化し続け、次の50年に向け、すでにスタートしている。真の「継続は力なり」と感じ入っています。

高梨わたしが入社後すぐにSL(スポーツ&レジャー)事業部に配属されました。SL事業部は1974年に虎ノ門ニューファッションビルに引っ越し、そこから2か月後ぐらいにホテルニューオークラでカーボンシャフトの発表会を大々的に行いました。
当時の日本のクラブメーカーは、ミズノゴルフさん、住友ゴムさん、横浜ゴムさん、ヤマハゴルフさん、ブリヂストンスポルディングさん、シントミゴルフさん、ダイワゴルフさん、マルマンゴルフさん、松田ゴルフさん、サンゴルフさんなどでした。
当時住友ゴムさんが展開していたキャロウェイゴルフさんのメタルヘッドのビッグバーサでシャフト市場も変わっていったと思います。パーシモン時代はリシャフトが難しかったので。
しかし、最初は売り先が数少なく、売上確保には苦労しました。
他社に先駆けて全国のゴルフ工房を訪問して販売を始めたのは今日に少しは繋がっていると思います。
シャフト事業が業績を上げ、藤倉ゴム工業の一部上場に貢献できたと誇りに思います。
Fujikura50年の歩み:
OBが語る軌跡と洞察 - 営業編![02]()
フジクラシャフトの
始まり
1973年~

飯田シャフトの開発のきっかけは何だったのでしょうか。
高梨当時の松本重男会長がアメリカでブラックシャフトが出来たと知り、我が社でも作れないかとなったのが最初です。
アルディラ社に東レさんを介して、技術提供を依頼したものの交渉がうまくいかず、では自社でイチから手作りでやってみようとなったのが始まり。
飯田シャフトの製造拠点は最初はどこから始まりましたか?
塩見シャフトの製造は最初から原町工場でした。
シャフト事業が社内でも水物と言われ、変動が大きかったために、「株式会社フジクラエンタープライズ」を1989年(平成元年)に別会社にして、事業拡大をしていこうと考えました。
飯田最初のモデルはFlyrun(フライラン)と聞いていますが。
高梨そうカーボンシャフト第一作としてFlyrun。
実はそこで当時ゴルフに付随するアイテムとして、レンジボール(ワンピースボール)、ヘソティ、グリップも合わせて発表しました。
飯田1974年に発表した段階では、国内1社目ですか?
高梨国産メーカーとしては、オリンピック釣具さん、日東電工さんはフィラメントワインディングだけでシートワインディングがなかった。それにFujikuraの3社でした。
渡辺1974年にFlyrunを発表しますが、そこからすぐにリシャフトブームになったのでしょうか?
高梨すぐにリシャフトブームというわけではなく、Flyrunを発表してから10年後ぐらいに工房に卸すビジネスを始めました。
渡辺それまでの約10年間はどんな風に売っていたのでしょうか?
塩見当時は比較的小さいメーカーに卸していました。当時の取引先は、松田ゴルフさん、サンゴルフさんなど。
パーシモンのヘッドを製造しているところにカーボンシャフトを卸して、オリジナルクラブとして販売してもらっていました。当時は、各メーカーさんに年間100本ぐらいで少量でした。
Fujikura50年の歩み:
OBが語る軌跡と洞察 - 営業編![03]()
Fujikuraがボールを
作っていた?
1973~1984年
飯田ゴム会社だから、グリップは作らないの?とよく言われるのですが、当時はそのような話はありましたか?
塩見
実は昔ちょっと(1973~1983年)やっていたんだよ。ピンクとかブルーとかカラーグリップも先駆けてやっていました。
当時は、シャフト事業もどうなるかわからない中、色んなものに挑戦してました。そのときは練習場向けのレンジボールもやっていたんだよ。
高梨ワンピースボールの一体成型の配合特許をとって、結構な数を販売していたんだよ。
ただ当時はきっちりとした丸いボールが作れなかったり、試作品を打つと空中で割れてしまうという苦労もあったな~
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メタルヘッドの誕生
1984年頃

高梨最初のシャフトって、どれぐらいの重さか知っている?パーシモンのヘッド時代。
今では信じられないかもしれないけど、カーボンでもシャフトが100gもあったんだよ。
そこから、キャロウェイゴルフさんがメタルヘッドを出したのをきっかけに、クラブの変化とともにシャフトも変わってきたんだよ。
塩見アメリカのPGAショーで初めてメタルヘッドを見て驚きました。そこでキャロウェイゴルフさんとのビジネスに繋がったな。
テーラーメイドゴルフさんとは、ジャンボ尾崎プロがきっかけ。そのときにゴールドシャフトをFujikuraが提供することになったんだよ。
ちょうどその頃、世の中的にもメタルヘッドが増えてきて、受注数も増えてきたな。
飯田当時、カーボンシャフトを完成しました!と客先に提案に行ったときはどんな反応だったのでしょうか。
高梨基本、『ゴルフクラブは、D0が当たり前』という不思議な神話がありました。
塩見ヘッド200g、シャフト100g、グリップ50gで当時は43インチだったのでほぼD0になる。それがバランスの基準とされていて、カーボンにしてシャフトを軽量化するとそれが崩れる。
そこでヘッド重量を足したり、クラブを長くしたりを提案することで、バランスは変えずに総重量を変えることに成功し、ヘッドスピードも上がり、飛距離を伸ばすことに成功しました。
飯田メタルヘッドのリシャフトブームのとき、モデルは何だったのでしょうか。
塩見FIT ON!かな。
中里Flyrunはパーシモンの時代。MHって品番に入っていたときは、メタルヘッドの意味。
飯田84年頃がテーラーメイドさんのゴールドシャフトでしょうか。
中里当時、ジャンボ尾崎プロがテーラーメイドさんのゴールドシャフトを使って優勝をしたことがきっかけとなりました。
飯田テーラーメイドさんのメタルヘッドについているものは、アルディラ社のイメージだが、そこはどうなのでしょう?
塩見テーラーメイドさんのゴールドシャフトは、アルディラとFujikuraの2社で、日本向けがFujikuraでした。
高梨なかなか当時はシャフトに社名が入ることがなかったから、製造元はわからないことがほとんどでした。
塩見今はどこのシャフトかわかるのが当たり前だけど、昔はシャフトなんて見てくれなかった時代。だからこそ、リシャフトブームが来て、印刷技術もあがったときに、手元にFujikura/Fujikuraの派手なデザインにして、ブランドをアピールしたんです。
Fujikura50年の歩み:
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他のメーカーでは
やらないことをやる
1995年

塩見ユーザーの声をたくさん聞きたい、シャフトをとりあえず試してもらいたいという思いから出来上がったのが、フジクラゴルフクラブ相談室。
1995年1月に記者発表も行って、東京都世田谷区大原に1号店をオープンした。
他のメーカーには出来ないこと、やらないことをやりたかった。
そして、ゴルファーがもっとゴルフを楽しめるようなシャフトを作りたいと思った。
高梨当時は販売メインというよりも、Fujikuraギャラリーのような感じで、シャフトをディスプレイしたり、どんどん試してもらう場所にした。
あっという間に予約がいっぱいになり、1か月先、2か月先、3か月先、、、半年先となっていった。
あるとき、NHKでも取り上げられ、皇室の方もお忍びで来られたこともあった。
相談室の創設は、他社が目を付けていなかった観点だったと思う。
塩見当時、白浜敏司プロにも相談室にいてもらい、ワンポイントレッスンもしてもらったり。その後今では当たり前だがフィッティングという形になっていきました。SIASというシステムを開発し、ボールのデータやクラブの軌道などが見える当時としては画期的なシステムだった。
高梨当時お客様のフィッティングをしたら、スイングを映像として撮って、帰りにお土産としてデータを渡したりもしてましたね。
結構喜んでもらえることが多かった。
Fujikura50年の歩み:
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ゴルフ工房との
ビジネス開始
1996年頃

飯田今でもFujikuraが大事にしている、ゴルフ工房とのビジネスはどのモデルから始まったのでしょうか。
高梨96年のFIT ON 11!の頃かな。
塩見その頃、ちょうどパーツ屋/部品屋さんが出来たこともそういうビジネスを始めたこともあるかな。
部材メーカーや、パーツメーカーが自クラブのヘッドを作っており、それを工房に販売をしていた。そこにフジクラシャフトを入れていった。
そこから、地クラブのヘッド×SPEEDERが良いとなって、1つの店舗でブームが起きると、どんどん広まっていくような形だった。
飯田国内のビジネスはどんな感じだったのでしょうか。
高梨姫路に船のアンカー(チェーン)を作る会社が多く、鉄の加工が出来た。
いつの間にかに鍛造という技術が出来上がっていき、アイアンヘッドの鍛造技術が広まっていった。
塩見姫路だけでなく、新潟でも広まっていったよね。
高梨Fujikuraとしても姫路や新潟に販売しに行ったな、当時。